山号・院号・寺号と幸薬師さま
どんなお寺の名前にも、山号と院号と寺号があります。
このお寺は『醫王山 東光院 西泉寺』という名前の天台宗のお寺です。
最初に、『醫王山』という山号は、描く・お医者様の王様、薬師瑠璃光如来(別名 大医王仏)に通じていると想像できます。西泉寺は、延宝4年(1676)に住職だったという記録(旧薬師堂棟札)の残る、権大僧都 法印 亮譽 師が中興開山したと伝えられています。その亮譽師が西泉寺に薬師堂を建立して以来、病気や怪我の快癒、それから長寿や健康、安産、心の病(悩み)の解決、心の願いの成就を願う参詣人で賑わったようです。
お薬師様は、「薬の師」と書きますね。そのお姿は、左手に薬壺を持ち、右手は指をやわらかく開いて手のひらを私たちに向けてくれています(施無畏印)。この右手は「怖いことは何もないんだよ」のサインなんです。「お医者様の王様」「お薬の先生」、そして「心配ない 心配ない 大丈夫 大丈夫」と微笑んでくれている、つまり、お薬師さまはこの世の私たちの願いを全て叶えてくれる、とても優しい癒やしの仏さまなんです。
西泉寺の薬師如来さまは、木造寄木造りの坐像で、室町時代前期に作られました。眉目秀麗なとても美しいお顔立ち、流麗なお姿をしています。御開帳日(星除け薬師大祭・春季彼岸第一日曜日)にお参りして目が合うと、ドキッとしてしまいますよ。江戸崎町史の一面見開きには、町を代表する仏さまとしてカラー写真が出ています。町史をお持ちの方は是非開いてみてください。
また、現在は幸せを運んでくれる『幸薬師』さまとお呼びしています。薬師堂の山額や絵馬にもそう書いてありますよ。ちなみに、天台宗の総本山、比叡山延暦寺の中心に立つ根本中堂のご本尊も薬師如来さまです。
ところで、私たちの生きているこの世の中はお釈迦さまの「娑婆 世界」ですが、娑婆から見てお薬師様はどっちの方角にいるのでしょうか?遠い東の「浄瑠璃 世界」がお薬師さまのいらっしゃるお浄土です。東方にいらっしゃるお薬師さまの美しくきらめく瑠璃色の光は、娑婆に暮らす私たちをも優しく包み込んでくれています。「東光院」という西泉寺の院号は、お薬師さまの光明のことなんです。
「西泉寺」は西の清々しい泉の湧き出る場所。西といえば阿弥陀さまの「西方極楽浄土」。私たちがいずれ訪れることになる理想郷です。
このお寺の名前、素敵でしょう!
ご本尊さま・・・金剛界大日如来さま
そして、西泉寺のご本尊さまは『金剛界大日如来 』さま。木造寄木造りの坐像、江戸時代中後期の作と推測されています。全身真っ黒な仏さまで、よく見ると、やはりとても端正なお顔立ちをしています。東日本大震災で瓦礫の下敷きになりましたが、全く損傷しませんでした。強くて美しい本尊さまです。
「大日」ですから太陽の神様で、神道の「天照大御神」、ギリシャ神話の「アポロン」、エジプト神話の「ラー」等と同じです。大日さまには「胎蔵界大日如来」と「金剛界大日如来」という別の見方があって、つまり、胎蔵界は「私たちは大日如来のやさしい胎内の中で守られているんですよ」ということ、金剛界は「私たちは大日如来から発せられるあたたかい恵みによって生かされているんですよ」ということを表現しているんです。西泉寺の本尊さまは、「太陽の恵み」なんです。
それから、西泉寺は江戸崎の新四国八十八箇所(地方の善男善女が遠く四国に行かなくても観音詣でができる配慮)の第五七番に選ばれています。また、当地桑山の浦向には成田組十善講の碑があったようです。
西泉寺が歩んできた歴史を辿ってみましょう
最初に歴代の住職です。
亮譽師は西泉寺の中興開山の祖と伝えられていて、西泉寺にはじめて薬師堂を建立し、また西泉寺北方の台地に新宮神社(産土神社)を造立し、その別当を勤めました。ちなみに、君山法耀寺も亮譽師の中興開山です。
薬師堂開眼法要の導師は、(比叡山白毫院・恵心院・東叡山本照院・日光山修学院で住職を勤めた)法善寺の学頭 貞暁 僧正で、法善寺はやがて西泉寺の本寺になります。
西泉寺はもともと檀家が少なく、むしろ薬師如来の信仰による祈祷寺の趣が濃かったようです。それが原因で、慢性的に経済が困窮していました。
亮譽師中興の後、いつのころからか無住となり、西泉寺の檀徒の先祖供養は隣村駒塚村の曹洞宗浄心院が代務するようになりました。西泉寺の境内には、浄心院に関連する阿弥陀石仏(享保元年秀英)や経典讀誦記念碑(享保4年秀英・寛延元年浄心院現住)などがあります。
逆に浄心院の本堂再建には桑山の檀徒もその中心となり(庄左衛門、七左衛門、伊左衛門、安兵衛 など)、たくさんの寄進もしています(金十三両二朱・銭三貫八百文・茅一反竹四十九本・米二俵・縄一万百六十尋・人足百八十人・藁百三十二束半・馬五十七駄)。
さらに西泉寺の苦難の時代は続きます。文化文政期には一時安定しますが、嘉永五年に再び無住tなり、「法善寺預かり」になってしまいます。
明治の廃仏毀釈の嵐は水戸、筑波でことのほか激しく、西泉寺にも少なからずその影響はあったようで、無頭の石仏も存在しています。明治11年に昌澄師(後に阿波崎観音寺の住職)が住職になって西泉寺再建に奔走し、一度は浄心院檀家となった53戸の檀家が再び西泉寺に戻り、寺付田畑山林も元に復しました。
西泉寺の資産は、29世純光師の代に残る記録によると次の通りです。
さらに時代を経て、30世善晃師の代の平成元年6月に新本堂が竣工し(それまで近隣農家の古民家を移築して本堂兼庫裡としていました)、31世善海代に薬師堂新築、現在は境内整備中です。
桑山には神屋遺跡が残っていて、そこには平安期の五十四戸の住居跡が確認されていますが、西泉寺が廃寺の危機を乗り越え、紆余曲折を経ながらも今日の隆盛を誇るに至ることができたのは、古墳時代にまで遡ることができる長い長い歴史と信仰、伝統あってこそのことだと思います。その住民の思いがお薬師さまの奉安によって花開き、更に続く苦難の時代を乗り切って現在に至っているのです。
ちなみに、桑山の地名は、古くは新編常陸国誌には『久波夜麻』と標記されています。桑の木がたくさん生えている山という意味ではなかったようですね。中世は東条庄に属し、江戸時代は天領で、元禄郷帳の村石高(石高は容積の単位→米一石は150kg)は573石余、天保郷帳では596石余、幕末は605石余(新田は別に8石余)でした。現在の住所は「茨城県稲敷市桑山」ですが、明治の廃藩置県制度によると、
上総安房知県事 → 宮谷県 → 木更津県 → 千葉県 → 茨城県(明治8年)→ 河内郡(明治11年)→ 高田村(明治22年)→ 江戸崎町(昭和29年)
と変遷していたようです。また、江戸中期の文書『観音寺開基覚之事』には、当時桑山には西泉寺以外にも出羽三山羽黒山伏の系統をひく「長楽寺」というお寺があったようで、現在は廃寺になっていますが、西泉寺前の急坂を今でも「長楽寺坂」と呼んでいることにわずかにその痕跡を知ることができます。
西泉寺のたからもの
西泉寺には、行政の文化財リストに載る宝物は薬師堂のお薬師さま以外に無いのですが、実はその幸薬師さま以外にもさらに素晴らしい宝物があるんです。
それは、西泉寺と仏さま達を守り通した歴代のお坊さんたち、檀家さんたち、信者さんたち。
弁天祭や「ブシャ(ビシャ)」や三峰講、大山講などの様々な「講」を通して神仏を祀り、地域の文化を大切に伝え続けた人々。
これから百年、千年桑山を守り、進展させていってくれる若い世代の人たち。
私たちの子孫たち。
それこそがどこにも負けない捺せんじの誇れる宝物です。
西泉寺の大宝物は西泉寺とご縁を結ばれている「人」なんです。
西泉寺が日本一やさしいお寺、ホッとできるお寺、癒やされるお寺、楽しいお寺、元気になれるお寺、すがすがしい気持ちになれるお寺、爽やかなお寺・・・になれるように頑張っています!!